配属されたのは「生産技術研究所」と呼ばれる部署で、主に工程間物流や工程内搬送、工程設計などを担当することになりました。
あるプロジェクトで工程間物流の設計を担当した際、上司から「これを参考にしなさい」と、一冊の本を手渡されました。
そのときは、この本との出会いが自分の人生を大きく変えることになるとは、夢にも思っていませんでした。
そこに書かれていたのが、ペトリネット(Petri net)という理論だったのです。
ペトリネットの考え方自体は、非常にシンプルです。
「現実の世界を、いかに少ない本質的な要素だけでモデル化できるか」——これに尽きます。
その本の中に、私の目を釘付けにした一つの問いがありました。
「その倉庫をなくしたらどうなるか」
一読して、心の底から湧き上がる大きな衝撃でした。
確かに、倉庫そのものをなくすことができれば、入出庫の作業は一切不要になります。倉庫を管理する業務も、管理システムも、そして「倉庫」という建物そのものも必要なくなるわけです。
目の前に当たり前のように存在する「倉庫」を前提にして改善案を考えるのではなく、そもそも「倉庫は本当に必要なのか」と根本から疑ってみる。この発想の転換は、若かった私にとって強烈な体験でした。
そして同時に、もう一つの重要な真理に気づかされました。
「倉庫そのものは、何の付加価値も生み出していない」ということです。
製品を倉庫に入れても、製品の品質が上がるわけではありません。加工が進むわけでも、組み立てられるわけでもありません。それどころか、倉庫を維持するためには建物、設備、人員、搬送、そして膨大な在庫資金というコストと時間を消費し続けます。
もちろん、現実の生産活動において一時的な保管場所が必要になる場面はあります。しかしそれは、「倉庫という場所に価値がある」からではありません。本来必要なのは倉庫ではなく、「物を適切なタイミングで次の工程へ流すこと」そのものなのです。
そう捉え直した瞬間、今まで「あって当たり前」に見えていた工場内の景色が、まったく違って見え始めました。
「どうすれば倉庫を効率化できるか」という視点から、「そもそも倉庫をなくすことはできないのか」という構造的な問いへ。
この発想は、私にとって単なる物流改善の手法にとどまりませんでした。
「今存在しているものを前提としてマイナーチェンジを繰り返すのではなく、存在そのものを疑い、本質に削ぎ落とす」
これこそが、後に私が手掛けるシステム設計、そしてSimLex ERPの核となる思想が芽生えた最初の瞬間でした。
ペトリネットは、私に一つ上の視点を与えてくれました。
「存在しているから必要なのだ」という思い込みを捨てる。長年使われている慣習だから正しい、とも決めつけない。まずその要素を思考実験として取り除いてみること。そして、取り除いたときに何が起きるかを観察する。不要なものを削ぎ落とした果てに、真に不可欠な「本質」だけが残るのです。
「現実に存在する複雑な業務をそのままシステムに写し取るのではなく、ビジネスの本質だけを抽出して美しい構造に再定義する」
数十年後、この基本姿勢は「SimLex ERP」という現実のプロダクトとなって結実することになります。
振り返れば、SimLexの真の出発点は会社を設立した2012年ではありませんでした。大学を卒業して間もない頃、生産技術研究所のデスクで開いた一冊の本。あのペトリネットとの出会いから、すべてのストーリーは始まっていたのです。
【解説】ペトリネットとSimLexの共通項
ペトリネットの世界では、現実の複雑な状態をごくわずかな構成要素だけで見事に表現します。これをSimLexの設計思想に置き換えてみると、以下のように一対一で対応します。
- トークン(Token): 物理的な在庫・モノの量
- プレース(Place): 倉庫、工程、仕掛、出荷などの「状態・場所」
- トランジション(Transition): 入庫、出庫、ライン投入、完成、出荷といった「状態の変化(事象)」
- 発火(Firing): トランジションが実行され、トークンが次の状態へ移動すること
ここで決定的に重要なのは、「今、プレースに何個残っているか」という現在の結果そのものではありません。
真に価値があるのは、「何が、いつ、どのトランジション(事象)を通って、どこへ移動したのか」という変化の履歴です。
受払(Stock Transaction Log)を「トランジションの履歴」として一切の漏れなく保持できさえすれば、計算によって「現在どこにどれだけのトークンが存在しているか(=最新の在庫状態)」は自ずと導き出せます。
単に結果としての「在庫テーブル」を保持するのではなく、状態を生み出した「変化(事実)そのもの」を単一のソースに記録する。
第1章で出会ったペトリネットの構造美こそが、後にSimLex ERPを貫く「Single Resource of Truth(唯一の真実)」のロジックそのものだったのです。
